不登校になる前は
部活の試合なんか随分見に行ったな~
たまに息子がメンバーとして試合に出るんだけれど
見てるこっちの方が熱くなっちゃって(笑)
引きこもりも終わる頃に
息子からいろいろ話を聞いた中で
ゆいつ続けていた部活の競技から
得るものが多々あったと熱く語っていた。
やっぱり行動するって大事だよね
子供が初めて見る人間社会
子供が初めて知る大人の世界とは
親の人間関係かな。
夫婦自体が子供にとって初めて目の当たりにする
人間社会と言っても過言ではないって
言い過ぎでは無いと思うんです。
その時に父親と母親が揃っていれば
その目に見えない間柄は、大人になってからの子供にとって重要だと思うのですよ。
子供に何をしてやれるか?
細かな事は沢山あるだろうけれど
大人と大人が(父と母)いかに信頼しあって生きているか、という事ぐらいしか
子供には教えるものなんて無いのかもしれません。
(離婚だの別居だの色々ありますが、親の人に対する普段の態度とかですかね?)
何も言わなくても仮面であったり
子供の前では争いを隠していても
そんなことは子供たちにはマル解りなんだと思いますよ。
夫婦の問題は多々ありましょうけれど
「あ・・大人になっても信頼し合えるのって”在る世界”なんだなぁ~」と
子供に潜在的に思わせるだけで、
十分役目は果たせてるんじゃないかなと思うのです。
なんでさ?
多感な頃、要するに学生だったりまだ十代位の頃に
身近に関わる人が亡くなるって
その後の人生に大きな影響があるのだと思う。
僕の場合
何だろう?この手は?とか
人々が当たり前のように信じてる世界が
何の為に存在してるのか?とか
この目に見えてる風景は一体何だ?とか
決まり事や当たり前だとされる事に
何か違和感を感じて仕方なかった。
結局は生きてるんだからより良く適当に合わせて
楽しく生きるしかないんだな~という結論までくる。
でもそれだって500回くらい毎回毎回堂々巡りなんだよね。
生きる事に是なら、そういう事に関心を持つのは
僕は良い事だと思うんだよね。
息子を見てると僕のその辺とはリンクしている気がする。
自分と向き合うきっかけ
何でも良いのだけれども
自分の意志とは全く別なところで感情が動くのが
恋愛だったりする。
この世に自分独りしか居なかったら
自分はどんな人間かも解らない。
自分が当たり前だとか常識だと思っている事が
あれれ?となることが多々ある。
一人の人間と深く分かち合えるまでなろうとする意志と、
相手との疎通を簡単に阻み、摩擦だらけだと知るのに
一番手っ取り早いのが自然発生的な恋愛だ。
好きになったに理屈はない
だからこそ自分を見つ直すにはコレが効果的だと思う。
うまくいかない理由をお互いが模索しなければならない。
相手を責めてるうちは何も解ってはこない
意識が自分に向かっていくからこそ変化できるのだな。
(余談だけれど気持ちが強い方が何らかの成長のりしろ幅がデカい)
おーい!はやく好きな子でも見つけろ~(笑)
僕と妻の覚悟
前回
「生きてる時に好きにやらせてあげましょうよ!」
と書きました。
そんな子供を好き勝手にさせるって?躾は?
などと不安になるんだと思います。
勿論年齢とか年代によって、
”好きにやらせてあげよう”は種類がそりゃ変わりますよ。
親は落とし穴になるべく落ちないように穴を事前に防いだり
注意したりして子供を守ろうとしますよね。
しかし、何度か書いてはいますが
経験して自身で掴んだ体験が一番身になります。
子供が不安がっている時は話して聞かせてやれば良いのですが
明らかに間違ってる(本人も他人さまにも良い事ない)事に突っ走ることがあります。
特に人間関係や恋愛とかに・・
それがどういうことなのか本人は解らないままでいたりするんだなこれが~
自分の気持ちや感情を優先し過ぎて。
そんな時は、注意は強くしますがリスク覚悟で容認します。
只、いつもギリギリの所で網を張って
下の方で落ちないようにと意識は常にしていますよ。
そういう時って実は、
その子も何か違うっていうのを潜在的に感じとっていて
親も苦しいし子も苦しいんですね・・
(一見子供は自由で楽しそうに見えるけど、一抹の不安を抱えています)
子供本人に自覚がなく成長もしてなければ、多分何度も同じ事を繰り返します。
そこの親になってんだから親も成長してなければ子供と立場は同じですよね。
で、
時が過ぎ、そこから抜け出てやっと物事は成っていきます。
そういう”業”を背負ってきちゃったんで
起こった事を流せてよかったと・・僕なんか考えてしまいますけれども。
その辺は上の娘で色々ありましたからね~(笑)
その分かなり精神的に大人です上の娘は。
機会があれば上の娘の話でも書きましょうかね?w
なぜ子供らを僕は好きにさせているのか
学生の頃、僕の友達が自殺をしてしまったり
事故でなくなったりと何人かのお通夜に行きました。
社会人になっても、友達の息子や娘が亡くなったり
知り合いの人の子が亡くなったりして
その直後に会う機会があったりします。
皆、口をそろえて
「あの時、何々をやらせてあげれば良かった・・」
と必ず言います。
そんな事になるなんて夢にも思わないからでしょうね。
なので生きてる時に好きにやらせてあげましょうよ!
不登校引きこもりになった時
・困ったな~
・どうすればよいのだろう?
・息子はどう思ってるんかな?
・何とかならないかなぁ?
コレは「学校に行ってもらう」という前提の悩みです。
次に
・学校で何かあったのかな?
・友達とうまくいかないのかな?
・イジメとかにあっているのかな?
・好きな子に振られたんかな?
という、「学校での事を問題にする」という前提の悩みです。
そして
・学校って行かなきゃいけないもんだろうか?
・世の中にとって学校って何だろう?
・そもそも日本の学校教育って何が前提なんだろう?
・学校教育とはどういう事なんだろう?
という、「学校制度に対する疑問」という前提の悩みです。
更に
・学校に行かないもしくは行きたくない行かれない
息子はダメなんだろうか?
・不登校がダメなのではなく
不登校という息子の意志は間違ってはいないんじゃないか?
という、「息子の存在と社会背景」という前提の悩みです。
今の所、病気もせず 他人を故意に傷つけもせず モノを盗む訳でも無く
五体満足に生まれた事がとても幸せだと感じられるのなら
登校拒否や引きこもりくらい可愛いもんですよ。
僕が何故そのように考えてしまうのかには訳があります。
まだ小学校に入るか入らないかの頃に
両親は共働きで母親は夜の9時くらいまで家に帰ってきませんでした。
弟が小児喘息だったもので
母親がいない間に発作が起こると
「あー!このままじゃ死んじゃう!誰か助けて!」と
毎晩恐怖に襲われていました。
母さんが帰って来ると、ああ弟は今日も生きてた・・
と、
幼いから心の底から本気で死んでしまうという恐怖を味わいまくりました。
なので、弟に関して元気なら何でもいい!と
顔を見るたび今でも思ってしまいます。
多分その影響がこの考えなんじゃないかな?と思いますよ。